アマーリエの紹介
巫女として多くのメッセージを降ろした。彼女の巫女能力は高く、人格霊だけでなく、地球神霊や太陽神霊、さらにはオーム神霊からもメッセージを受け取ることが可能であった。それらのメッセージはすべて書籍やCDに収載され、公開されつつある。彼女自身は、地上での使命を終えて帰天した。
エルランティ、イエス・キリスト、モーゼ、エルカンタラー、出口王仁三郎、高橋信次、ノストラダムス、ミカエル、他
2002.09-12
日向、イエス・キリスト、マイトレーヤー、ゼウス、天照大神、ミカエル、マヌ、木花開耶媛命、他
2003.04-08
日蓮、高橋信次、マヌ、他
2004.01-12
モーゼ、親鸞、ゾロアスター、天照大神、ミカエル、アモール、カイトロン、マヌ、他
2005.01-03
聖母マリア、イエス・キリスト、平塚らいてう、ジャンヌダルク、吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟、福沢諭吉、他
2005.04-06
木戸孝允、西郷隆盛、日本武尊、谷口雅春、ガブリエル、空海、ポセイドン、ゼウス、アポロン、アテナ、他
2005.07-09
ヘレンケラー、マイトレーヤー、日向、小桜姫、日蓮、木花開耶媛命、ミカエル、マリアテレジア、役小角、他
2005.09-12
モーリャ、日蓮、高橋信次、アウグスティヌス、サリエル、聖母マリア、天照大神、ミカエル、他
2006.01-06
アミ、エリヤ、バシャール、イエス・キリスト、ゼウス、モーゼ、バプティスマのヨハネ、ラファエル、他
2006.07-12
ミカエル、高橋信次、須佐之男命、天御中主神、ピカソ、他
2007.01-12
坂本龍馬、セレニティ(月意識)、アレキサンダー、ジャンヌダルク、アデレード(アトランティス最後の王女)、他
2008.01-02
オーム、アントニウス(太陽意識)、ミカエル、天照大神、他
2008.01-06
オーム、聖アントニウス、ミカエル、テラ、ガイア
2008.07-12
高橋信次、天照大神
2009.01-06
空海、役小角、ガイア、オーム、プラトン
2009.07-12
聖アントニウス、ミカエル
2010.01-
マイトレーヤー、聖クラーバス
アマーリエからのメッセージ
第一章 はじまり
1995年に天上界から初めてのコールがあって、そのとき私は素直に喜べなかったのです。なぜだかわからないけど、死ぬほどいやだと思いました。そのときは意味がわからなかったけれども、15年経った今はその意味がよくわかるような気がします。
そのときミカエルと名乗る霊が「不甲斐ない。なぜ早く決意を決めないのだ」と私を叱責しました。私は「平凡ないち女性としての幸せだけを望んでいる」と言いました。今思うと、私は欲しかった幸せは全て持っていました。4人のかわいい子供たちと誠実な主人と、豊かな暮らしと、健康な肉体を持って、友人たちもたくさんいて幸せの絶頂でした。そのときに、この申し出を受けたら全てをなくすだろうということを、本能的に私は知っていたのだと思います。そのときミカエル様は「もう十分だろう。月並みな女性の幸せはもう堪能しただろう」と言ったのです。そのときにはわからなかったけど、今思うと、私の結婚生活の幸せは期限付きのものだったのでしょう。新たな使命が発動されるまでの、限定付きで許されたものだったのだと、今思うとわかります。ミカエル様は私に、「幸せボケをしてしまったのか、嘆かわしい。自分の幸せだけ考えていてどうする。使命を早く受けて立ちなさい」と言ったので、私はミカエル様に向かって「私の勝手でしょ。それならあなたやればいいじゃない。私は嫌よ。ほっといて」と啖呵を切ってしまい、大喧嘩のようになりました。今思い返すと懐かしい話です。
初めてエル・ランティ、9次元霊をとったとき、失神しました。すごい電流が流れて意識を失いました。それまで霊言をとるということに危険があるとは感じていたけど、そのとき初めて、モーゼの十戒のシーンのような、強いエネルギーがこの肉体を通ってくるんだと思いました。私は過去世で巫女をやっていたと聞かされました。だから、強い霊界のエネルギーを三次元の肉体に受け続けると、病んで巫女病になってしまうと教えられました。私は過去世何度もそのような病で亡くなっているんです。だから初めてミカエル様に使命を受けるように言われて、過去世と同じ運命が来るだろうと予感したのでしょう。私という人間は、天界の神の言葉を地上に伝えることが使命であるのならば、最終的にすべてを受け入れるのだと思います。現代に生まれた私たちは、過去世に比べればまだまだ安全で幸せ者だと思います。私が嫌がっていたとき、脇でジャンヌ・ダルクが「私だって母さんのもとで、家の手伝いをしてたかった。」そりゃあそうですよね。16歳の女の子が戦なんかしたいわけないでしょう。それで最後は焼き殺されたんですから。「私と比べてどっちがいい?」ってジャンヌが言ったとき、病気になっても今の私のほうがジャンヌに比べたらはるかに幸せ者だと思いました。私は今、多くの人たちの助けをもとに生かされています。何ひとつ自分では動くこともできないけど、助けてもらって愛を受けることを学ぶのだと、ミカエル様から言われました。私はいつも人のお役に立ちたい、人に負担をかけるのは嫌だと思って、人から愛を受けることから逃げていたのです。人はひとりで生きていけるものではなく、使命はひとりで果たせるものではなく、みんなで支え合って、弱さを支え合いながら、生きていくものだということを私は学ばなければいけない。そのために私の人生は最後このような病も含めて、計画があるのだと言われました。15年前に言われたとき、実際は体はピンピンしててすべてがうまくいっていたので、全然ピンとこなかったのです。あのとき言われたことは、今になって骨身にしみてわかります。
第二章 世界の車窓から
私は立場上、いろいろな人の相談を受けます。第三者に相談する人は、「自分の人生はどうなるのでしょうか?」ということを聞きたがるものです。だけど、人生はどっちでもいいのだと思います。その人の自由意志で決めた道はどちらでもよくて、ただ大事なのは決めた以上は自己責任でその道を歩みながら、学ぶということが肝心なのだと思います。
私はよく、人生は列車の旅のようなものだと思うのです。
そう、すべて列車の中にある同じ客室に乗り合わせたのが家族、そして同じ車両、隣の車両、でも同じ列車に乗り合わせたのが仲間たちです。その人たちとともに、その列車ならではの景色を見ながら、いっしょに旅をするものです。
ときどきつらいことがあります。そういう時にしてはいけないのは、ときどきすれ違ったり追い抜いて行かれたりするよその列車を自分の小さな窓から見て、あっちの列車で旅をすればよかったのにと、比較してうらやましがることです。
人生には分岐点があり、そのつど選択を迫られます。その選択は本人、私たち自身が決めたことです。でも、いつの間にかそれを忘れ、今自分がつらい目に遭うと、他の列車を覗き見て、あっちに乗ればよかったのにと思うのは間違いです。
すべて自分の意志で両親を選択し、家庭環境も肉体も自分で決めてきて、配偶者や職場だって生まれた後に自分自身で選択した結果です。それで今の列車の乗車券を獲得して、今を生きているということです。
たとえ独身であったとしても、パートナーがいないということを嘆いてはいけません。独身であるということを、実際に自分で選択してきているんだということです。
だから、今の人生がままならないのは何か他のせいであるということにしてはだめなのです。そうしたら問題は解けません。
人生という列車の、ただ1回の自分だけの旅の中で最も大事な目的は、過去世からのカルマの精算と愛を学ぶことです。たとえその列車にあなたが乗らなかったとして、他の列車に乗っても、喜びも悲しみも同じだけやってくることでしょう。そして、たとえその景色が、乗り合わせる人の顔が変わったとしても、学ばなければいけない課題は同じなはずです。だから、他の列車に乗り合わせたら自分はこんなに苦しまなくてよかったのにと嘆くのは、間違っていると思います。
人生50年も生きてくると、振り返るといろいろなことがあったなあと思います。でも、そのすべてが今の自分をつくってくれたのだと思うと、感謝しかないものです。
人生はどちらを選ぶかということがいちばん大事だと思います。だから、神はすべての神の子たちに自由意志というものをお与えになったのだと思います。自由意志があるからこそ、私たちは愛を学び成長することが赦されるのです。
どっちの道を歩んでもいいのです。問題はどの道を歩むかではなく、自分が選んだ道でどう生きて何を学んだか、それだけが大切なのだと思います。
だから、最初の課題に戻りますが、どっちに行ったら私の人生は間違いないでしょうか、と私に尋ねる人は根本的に間違っていることになります。「あなたはどう生きたいの? どっちでもいいのよ」と答えます。「ただ選んだからには責任を持って、自己責任で一生懸命生きなさい。その道を歩みなさい」と言います。
この頃、自殺する人が多いということをよく聞きます。この間もニュースで、新任の小学校の女の先生が自殺したということを聞きました。その人はとても真面目な方だったと思います。だから、何でも思いつめてしまったのでしょう。人間は人生に何度か、悲しみのどん底に突き落とされるような体験はするものです。その時には、人生は自分の仲間たちと同じ列車で旅をしているのだと、少しおおらかに考えたほうがいいと思います。
あまり煮詰まってしまわずに、人生を楽しむゆとり、いい意味でのいい加減さをもって旅を楽しむのだという気持ちで考えればいいのです。
そして、列車は必ず駅に止まります。分岐点で他の列車に接続する駅に止まるものです。煮詰まって死にたくなっちゃうくらい追い詰められたのならば、その列車を降りてしまえばいいのです。他の列車に乗ってまた別の人生を、別の景色を見ながら旅をするのだというくらいのゆとりを持てばいいのだと思います。
そういうことができないから、たくさんの若者が、それだけたくさんの若者たちがこの豊かな日本で、経済的にも恵まれ肉体も健康でありながら、命を絶ってしまうのだと思います。
思い詰めないで、せっかく今回この時代に生まれてきたのだと思って、外国旅行をみんなで楽しむように今世の地上生活を楽しんで旅をするのだと思って、最後まで生きてほしいと思います。
人生の目的は、繰り返しますが、過去世からのカルマの精算と自分なりの愛のテーマを学ぶことであるということを思ったら、自分の選んだ人生の列車の景色を楽しみ、同じ車両や客室に乗り合わせた人たちとワインでも楽しんで、「出会えてよかったねえ」って言って悔いのない人生の旅を体験して帰りたいものだと、私は常日頃思うのです。
第三章 花とミツバチ
「女性は花であり、男性はミツバチである」。そう言うと、一部のフェミニズムの活動している女性たちから反論が出ると思う。でもあえて私は言わせていただく。「女性は花であり、男性はミツバチである」と。
『人形の家』のノラが封建社会の家から外の世界に解放されて、女性たちが教育を受け、社会進出できる世の中になりました。それは女性の自立と自由意志を学ぶ道であり、とても有意義なプロセスであったと思うのです。しかし、高学歴の女性たちが男性に負けまいと社会進出をして、社会的な地位やお金を稼ぐようになって、寂しい孤独な女性たちが増えたように思えます。
その一方、女性たちに、子どもを産んでその胸で子どもたちを育てることの意味を唱える、重要さを唱える母性復帰を担う運動が出てきたと思います。男性にはできない出産とか育児の大切さとともに、女性の母性で社会を守り育てることの意義というものが見直されてきたと思います。レムリアの「女性の法」もそこにあると思います。
しかし、昨今「ス−パー主婦」みたいに家事も育児もこなし、社会の仕事もやれるという主婦がもてはやされる時代になってきています。その時に私などは聞いていて、家庭とは、主婦ひとりがつくるものではないので、やっぱり夫と子どもたちの協力がなければいくらひとりで女性が頑張っても、燃え尽きてしまってうまくいかないと思います。
私は以前、そういう「スーパー主婦やっています」という方の講演を聞いたことがあります。聞いていくうちにびっくりしたのは、その方がすごいというより、その方のご主人がなんて理解があって、彼女の言うままに協力してくれるんだろうと、我が身と比べて、それに一番驚いたものでした。
しかし、その方も離婚を繰り返していて、今言ったことが長持ちしないんじゃないかと思って聞いていました。そう、男性の理解がちゃんと得られなければ、女性がいくらスーパー主婦になろうとしても、それはちゃんとした模範的な教えにはならないと思うのです。
今、不当に弾圧されて自由と自由意志で自分の頭で考えることができなかった女性たちが、自分の意志で歩もうとしています。その時に、かつて自分たちがされたように不当な強制や自由意志の剥奪された状態で、男性に同じ思いで要求を突きつけても、真に女性は幸せにはなれないと思います。
女性と男性は宇宙の陰と陽のエネルギーとして神様に創られた根源的な性格を持ちます。それをその本質を理解しないで、自分たちの要求を男性や、男性は女性に押しつけても、お互いに幸せにはなれないと思うのです。まず、ありのままの自分たちを認め合うことが大切だと思います。
現代のフェミニズム運動は、女性の目覚めと自立の次に、男性に女性の本質を理解してもらうという段階にきていると思います。男性の協力なしに女性たちがやみくもに走っても、燃え尽きてしまうことでしょう。それには男性と女性、宇宙における陰と陽という互いの本質を知らなければ、相手を理解することはできないでしょう。
女性は花であり男性はミツバチであるということに抵抗がある方もおられるでしょう。でも、花にも大きいものと小さいもの、色もとりどりで、そこにおいてバラやユリやボタンのような花もあり、野草や高山植物のような可憐な花などのように個性の表現はできるのです。
蜂も凶暴なクマンバチのようなものからミツバチや刺さない蜂などいろいろな種類があります。その意味で個性は多様であるけれど、花は本来花であり、ミツバチは本質的においては蜂であることを認め合わなければ、互いの役割や価値を認め理解することはできないでしょう。
花は女性である、ということは女性はみんな美の表現者であり、美しく装いおいしい蜜をたたえて、ミツバチが寄って来るのを誘うのです。自分から足を生やしてミツバチを追いかけ回すようなことは、花本来の役割ではないということです。
現代の女性は高学歴、高収入になり、自信を持つのは結構なんですけど、男性はミツバチなので美しく装い、かぐわしいにおいで誘い、おいしい蜜を用意して誘えばいいのに、自分で仕切ったり、あろうことか足を生やしてミツバチを追いかけ回す花が出てきたりしています。そうするときれいな花だと思っていたミツバチはびっくり仰天してしまって、死にもの狂いで逃げ出そうとします。本当にそうなるとホラーになって、女性が追い回すほど死にもの狂いでミツバチは逃げるのです。そうして寂しい孤独な女性は増えていきます。
私は現代のアラフォー世代の孤独な女性たちに幸せになってほしいです。それには自分で蜂のように自由に仕事や社会的地位を築けたからといって、男女の関係を力で押してはならないということをいいたいです。
幸せになるということは、愛し愛されていることこそ幸せというのです。自分がいいからといって、男性の気持ちを考えないで追い回したり、相手を仕切ったりすると、男性は死にもの狂いで逃げ出してしまいます。どうか相手に愛されるために自分のエゴを捨てて、理解を求める相手を受け入れて、相手のいいところを育て、男性の神性を開花させて、一緒に幸せをつくっていくんだという気持ちになってください。そのようにならないと女性は幸せになれないでしょう。
花はどの花も美しいです。なんであんなに美しいかというと無心に咲いているからです。その可憐な姿に誘われて虫たちはやって来て、おいしい蜜を食べながら花に受粉させお返しをしていくのです。男性と女性のロマンティシズムは少し違うように思います。男性は合理的であって、それでそのロマンティシズムは弱い女性を守ってあげたいという時に、男性性の陽の意識が全開してくるように思います。
女性は合理的ではないけれども現実的で、子どもを育てなければという、極めて現実的な本能があるように思います。そして、その女性のロマンティシズムは、いつかは白馬に乗った王子様が自分を迎えに来てくれると夢を見ます。そこがどうも恋愛や結婚のトラブルの原因になっているように思います。
男性は女性を守るという使命感が出た時夢を見るので、女性はそれほど守ってもらわなくてもいいと思っても、守ってもらえるようにしたほうがいいと思います。
現代の女性が学歴や収入や男女同権の論理で男性をくさしてしまうと、男性は自分が守ってあげなきゃという自分の必要性と意義を見いだせなくなって、自信をなくしてしまうのです。それでそういうふうに自信をなくした男性を見て、女性たちは、こんなのは私が待っている白馬に乗った王子様じゃないわと思って、いつかやって来るに違いないと夢を見て、いつまでも結婚できなくなってしまうのだと思うのです。
どうかお互いにそんなに完璧な存在ではないのだから、お互いの弱さを、不完全さを受け止め合って生きるようにしてください。赤い糸は自分でたぐり寄せなければ、来るのを待っているだけでは、相手に気づけません。たとえミツバチが花の入り口に止まっていたとしても、花が開いてミツバチを見なければ、出会えないのだということです。
第四章 芸術と感動について
感動とは、神の子の部分を感じること。
芸術はそれぞれの技術で神の子の愛を表現して、感性でメッセージを伝え、それを聴いたり見たりする人の神の子のハートをゆさぶり、感動を呼び起こすことができたら、その作品やパフォーマンスは成功といえます。その感動を呼ぶためにはある一定水準以上の技術レベルが必要で、その水準に至っていないといくらメッセージが素晴らしくても届きません。だけれども、技術はあくまで表現手段に過ぎない、ということをよくわかっていないとだめです。技術的なことが少しでもわかるようになってきて、そういうことを追求し始めると自己満足に陥ってしまうので気をつけてください。技術は表現するのにある一定水準必要だけれども、それがすべてではありません。大事なのはメッセージが伝わること。一般の観客の視点で、要はおもしろかったかつまらなかったか、感動したか感動しなかったか、そういう視点を忘れてはいけません。まず伝えるメッセージがあって、それを表現媒体とテクニックに乗せて、聴く人(見る人)に発信するということ、それが芸術の使命です。芸術は感性で感動を伝える手段だから、感動しなかったら失敗だと思ってください。
芸術で感動するということは、感性で神の子のバイブレーションを感じ取るということです。 私が霊言をとる時でも、どこの世界に照準を合わせて引いてこられるか、それで巫女の格が決まります。それは芸術家にもいえることで、その世界に照準を合わせてその世界のバイブレーションを引いて表現できるかで、芸術家の資質が決まるのです。如来界、菩薩界から引いてこられる人はやっぱりすごいです。そういう人は、たとえば音楽家であるならばひと声音を出しただけで、あと歌っただけで、ざっと感動の涙が出ます。それはその世界に共通する精妙な波動を、その表現技術をもって表すことができるからです。音楽は特に波動なので、音楽家の人はそういう世界の音楽を表現できた時に、みんな涙を流し、天才だとか言うのです。モーツアルトしかり、ショパンしかり、リストしかりです。現代でもひと声歌っただけで、神の声と言われて涙が出る方がたがいます。ストーリーなど知らなくても涙が出るのです。それは、人類は皆神の子なので、神の子の波動が心の琴線に触れたときに共鳴して涙が出るのです。すべての人を神の子だと気づかせ、立ち戻らせ、感動で胸を揺さぶることができる、それでこそ芸術の本来の使命であります。だから、音楽でも絵画でも、みんな神の子の波動に照準を合わせるのだと思って、自分ならどの世界に接続して表現できるだろうかということを、自分の個性で精いっぱい表現していただければいいと思います。波動というのはいつも言いますけど、ラジオのチャンネルのようなものです。その人の心のあり方、法を学んでいる魂の熟練度が、神様のどの世界につながるかを決めます。だから、芸術家の皆さまもどうぞ、感性だけでいいのだと開き直るのではなくて、せっかく法を学べる時代に生まれ合わせたのですから、法を勉強してより精妙な高次元の波動を理解し、キャッチできる、そして発信できるように学んでください。そうすれば、必ずや神の声を代弁する芸術家になるでしょう。
第五章 初恋
初恋とは、自然発生的に木の芽が芽吹くように、神がお創りになった陰陽のエネルギーが存在するということに気づかされる最初のステップです。
自分が何者であるかを気づく過程で、女の子は女の子になり、男の子は男の子になるという、そのエネルギーに気づくこと。
これから始まる自己探究の旅の手始めとして、自分の中の陰陽のエネルギーに気づき、そこから自分が何者であるかという問いかけが始まってくる最初のステップであり、大切な第一歩です。
愛というのは、無償で自分の身を捨ててでも相手の幸せを願うことが自分の幸せであるという、無私の思いを学ぶことで自分の愛のエネルギーに気づくということです。
だから恋愛は強制されるものではなく、自然発生的に自分の中にある親和性という、魂の中にある人に惹かれるという法則があるのです。初恋は、思春期にときめくものだから、まず愛の第一歩を学ぶために必要な、大切なものだと、子供たちを見守り、そこで必要な経験をして育っていくのです。