イエス・キリスト
(イエス・キリストは、アモールが約2000年前にイスラエルの地において愛を説くために生まれた時の名である。本体のアモールの意識体は、地球霊団の最上階の10体のうちの1体で、愛を担当している。医療関係の霊系団も指導下にある。)地球は神の愛から生まれました。
愛の中に生まれ、愛により育まれ、愛のために天上界よりご指導いただいております。 人びとよ、愛を忘れたのですか。
あなた方はどこから生まれ、誰に生かされ、何のために生きてきたのか。
神は愛です。
愛の中にすべてがあるのだということを、そのことをもっと多くの方がたに伝えてください。
愛とは何か。
自分たちの正義のために他を傷つけ合うことではないはずです。
その根本的な間違いが、これから世界大戦へと向かわせる大きな原因となっているのです。
自分たちの正義に酔った姿はけっしてほんとうの愛ではないのだということ。
それを、時代を通して人びとは理解しなくてはいけないのです。
神の愛がどこにあるのか知らなすぎます。
どうかあなた方が、その愛の一端なりを人びとに伝えていただきたいのです。
わたしの愛の言葉を人びとに伝えていただきたいのです。
そして、少しでもこの地上に愛が満ち、光が満ちることをわたしは願ってやみません。
家庭の中に愛が宿りますように。
そして、新たな光の天使たちを愛のもとに育み、世界中が愛に満ちた時代となり、また、復活することができますように、我々の計画に力を貸してください。
愛というものが様々に語られているけれども、究極は神の愛そのものが、どれだけ神の子として理解できているかという、そこに尽きてくるのです。
究極的には、宇宙の中に内在する神の思いを、自らのエネルギーの一部として、神の子として今自らがいるということ。
そこに、どれだけ、自らの内側に入っていくことにより、自分自身を知っていく、神の子としての自分自身の、愛の奔流としての思いを、いかに認識していくことかということが、究極的には宇宙の愛のエネルギーである、愛の法則である、神ご自身を理解することにも通ずるということなのです。
それが仏教でいう悟りであり、内観であり、自分の中で禅定したりしていく中で、自分自身の悟りを高めるというけれども、悟りは高めるものではなく、本来が神の子として、自らの中にある偉大さに気づいていくだけの旅路であるのです。
だから、すべての者たちが、今もうこの地球にいるすべての者たちが、自らの魂の偉大性に気づいたのならば、すべてがイエス・キリストになり、仏陀になり、モーゼになり、孔子になっていくということ。
そのような者になれて当たり前な者たちであるということ。ただ、自らを気づくチャンスがなかった、いや、気づこうともしない、気づいてはいけないというブロックがかかっているだけなのです。
みんな偉大な神の子なのです。
みんな愛の化身である神の子なのです。
けっして、私だけが特別な者ではなく、あなた方も私と同じ神の子であり、愛の化身であり、愛の奔流であるということ。
その時に、なぜ私とあなた方の違いが出るかというと、私は自分が愛の化身であり、ささやかながら、神につくられた神の子であるということを信じて、知っているというだけのことなのです。それを信じているということなのです。そこに疑いを持たなかったというだけのことなのです。
皆さま、皆わたくしと同じであるということをもって、自らに蓄えた、素晴らしい叡智が眠っておられる方がたであるということに、敬意を表しつつ、どうか、そのような自分自身に気づかないという、もったいないことをすることなく、自らの可能性を信じ、神の子としての己自身に誇りとプライドを持ち、どうか人生の中で、それを愛する、他の神の子たちに気づかせてあげる自灯明(じとうみょう)となられ、愛のたいまつとなられんことを、私は望み祈るものであります。
愛とはすべてに勝り、すべてを生かしていくもの。
自分自身を愛し、そして自分自身を愛することが、他者を愛し、他者を生かしむること。
相手を生かせるということは、相手の尊厳を、相手が神の子であるという素晴らしさを信じて、気づかせてあげるということ。その担い手になるということ。援助者になるということ。そのことが愛の担い手でもあります。
霊言集を降ろすということ。霊言が降りるということ自体も、この時代の中におき、かつての時代から見ても、これほど立て続けに霊言が降りることはないけれども、我らの言葉を、直接この地上に降ろすこのチャンスに、少しでも多くの言葉を、明快な言葉を使い、ひじょうに日常的な、多くの人びとの目線に合った言葉として、納得できる素朴な言葉を使いながら、より明快に我々の意思を伝えていくということ。
その言葉を学ぶ人びとの、人口の多さということを考えると、易しい言葉を使いつつ、多くの人びとへのメッセージを伝えていくということ。
そのことが、のちに書物となって残ったときに、時代を超えて、次々と多くの人びとに、我々の天上界の意思ということを伝え、彼ら自身がその書物を読み、一人ひとりがまた、神の子へ、神の子へと気づいて、自分が本来、神に生かされた愛の化身、神の子であると知り得て、それを信じて、その自らが変身したとき、神の子としての自分自身に変身していったとき、その魂は光り輝き、時代から時代へと連鎖反応的に人びとが生まれ変わっていくのです。
それをもって、しなくては、この地球を、今の戦争や、争いや、貧困や、様々な悲しみ、苦しみの差別の中で、乗り越えながら、愛の星にしていく道は切り開かれないのです。
ですから、とても、今さら愛と思われるかもしれないけれども、信仰の世界も、この宇宙も、この世の中も、すべてが愛により、愛に始まり、愛により終わっていくのだということ。
愛は循環し、愛は未来永劫に、永遠に流れ続けていくということ。
愛なくして、いかなる者たちも幸せにはなれず、愛そのものの奔流の、枝分かれした自分自身が、神の子であり、愛の化身であるということに気づいたのなら、自分を愛するように、他者を、身の回りの者たちを、地球の生きとし生けるすべての者たちを愛していく。
その姿が当たり前になってくるはずなのです。その時にはいかなる差別も、悲しみも、苦しみも消えていくのです。自然に消えていくのです。
そのような星にするために、どうか、私に力を貸していただきたい。
愛を伝えるということに臆してはなりません。
愛というものは、何度も言いますけど、条件付きではないのです。
まわりの環境のすべて一切のものを我が痛みとして、我が分身として感ずることにあるのです。
であるのならば、一見あなた方を誹謗する敵であると思う者たちも、ある意味で言うと神の子たちであるのです。
ただ迷い、苦しみ、わからない、自らが進むべき方向がわからないゆえにあなた方を非難しているのかもしれません。
でもそのときに、あなた方だって今まで間違ってこられたのですよ。あなた方だって自分自らが神の子であるということを気づかずに、神が宇宙の中でこのように無限の時の中で、ただただ黙って酸素を、ただただ黙って神の太陽の光を与えてわたしたちを育んでくださったことにまったく恩知らずなあなた方であったではありませんか。
それであるにも関わらず、神はただただ無償に愛というものを投げかけ、あなた方を育んでこられ、あなた方が進化発展するためにその環境を整えてこられ、そのために祈りをもってあなた方をこのように生み出してくださったのです。
その恩知らずなわたしたちであるのならば、そのあなた方を誹謗中傷する敵を赦すことをもって、神への恩に報いるということをもってもよろしいのではないでしょうか。それをわたしは言ったのです。
「汝の敵をも愛せ」と。
「右の頬を打たれたのなら左の頬も差し出せ」と言ったかもしれません。それはひじょうに極論であったかもしれないけれども、でもある意味で、敵である彼らもあなた方と同じ神の子である、仲間である、兄弟であるということをわたしは言いたかったのです。
その者たちを裁くことなく、「汝、人を裁くことなかれ」ということも申したと思います。裁くことなく、汝の隣人を裁くということは己自身を裁くことになるのです。
愛の摂理の中においてやったことは必ず自分に戻ってくるということ。
そのことを思って、あなた方は同胞を愛しなさい。
それが自分の友を、自分の敵をも愛していくことが結果的に巡り巡って、原因結果の法則によって、あなた方自身が多くの方がたから愛されるという結果をもって、自らの幸福を生み出すのですよ、ということをわたしは申し上げたのです。それは神の根本的な宇宙の法則に則っているということなのです。
愛は循環するのです。
その方に与えた愛をもって、その人からだけ返してもらおうと思うから、苦しみがわくのです。
ほかの人たちを赦しなさい。そしてあなたの愛を求めている人は、数々の方たちがあなた方の身のまわりにいるはずなのです。
できることからしなさい。無理はしなくていい。無理をする必要はない。
でも、あなた方がやれる些細なことはたくさんあるはずなのです。毎日行き交う人ににっこりと笑って、「おはようございます」「こんにちは」と言うことも愛の一歩でしょう。そして、難民の子たちにただ五百円のお金を送ることをもって、その子たちが教科書を持ち、食べるものや井戸の水を掘ることができたら、それもまた愛の表現形でしょう。それ以外にもっとあなた方のように、我々の言葉を直接に出版物にし、多くの人々に対して愛の言葉としての、直接的な伝道という形においての神の使者としての仕事をするということも大きな仕事でしょう。
だが私生活の中においても、こういうレムリアの仕事においても、そして職場においても家庭においても、できる限りにおいて愛を与える存在になりなさい。
愛はむさぼるものではないのです。
愛は与えられると思うから怒りがこみ上げるのです。
愛を批判するものとして、批判されることに対する怒りを持つから、それは自らの苦しみになるのです。
あなた方を苦しめているものは、よくわたしも知っているのです。
でもわたくしの時代にも、わたくしが法を説く時代にも、数々の法敵という方たちはおられました。
数々の身の危険もありました。命すら狙われ、わたしは毎晩毎晩いろいろなところを渡り歩いていたのです。寝ることすらもままならない。いつ命を狙われ、この神理の仕事ができなくなるかもしれないと、弟子たちとともに逃げ回っていたときもあるのです。
そのことから思ったら、あなた方は今殺されることもなく、そして平和なこの現代の時代の中で、人権というものを守られておられるのです。
それを数々の霊人方があなた方に伝えておられたのです。
そのことを思われたなら、あなた方は今命を狙われることはないのです。最低限、命を狙われることはないのです。
であるのならば、守るということよりも、愛というのは与えきりに与えるものであると。見返りを求めるものではない、条件付きの愛は愛とは呼ばないのであるということをもう学んでいただきたい。そのような勇気を持っていただきたい。