スピリチュアル・メッセージ

神理の価値観を入れた教育理念の確立を

福澤諭吉 2005年3月24日の霊言

福澤諭吉

紹介動画

明治維新の時におきましてもわたくしのように、下級士族の出の者におきましては、将来どんなに学問をしようと、どんなに頑張っていこうと、生まれ落ちたところで、すでに将来は決まっていたという、あがいてもあがいても、人生における挑戦も、努力というものも、なんら人生を切り開いていくという希望も活力も生まなかったという、そのあきらめに満ちた身分制度の中で、人びとは生きていたのです。
 その封建社会の中から脱却していくには、新たな物差しが必要であった。その意味において、政治的な大改革者、指導者、そのような者たちが、いろいろ明治の時には出たのですけれど、わたくしは教育、啓蒙思想ということを通して、新たな学問という尺度を人びとの中に呼び入れることにより、新たな、生まれ落ちた身分社会の構造を打ち砕くために、わたくしは学問というものを多くの人びとに広めていく、そのような新たな価値尺度というものを取り入れていく、それが封建制度を打破し・・・。
幕藩体制というものから新たな文明国への転換点として、新たな思想的な物差しの樹立ということを目指すために、わたくしは生まれていったのです。
 そして、確かに学歴万能主義ではありませんでしたが、学歴ではなく、学問というものを人びとが、身分に関係なく、どんな家庭に生まれようと、 向上心と克己心(こっきしん)を持とうとする者にとっては、いかなる学問であれ、一生懸命やり、その業績を残していったのなら、新たな職業へ進んで行くチャンスを与えられていくという、そういう理念構造があった。それが明治の新政府というものの中に取り入れられていった時に、多くの人びとを、身分制度から解放したあとの新たな価値尺度づくりというものを、人びとに提示したのです。
 幕藩体制、士農工商という、そういう制度を崩壊させるだけではだめだったのです。それを龍馬たちがひっくり返したあとに、新たな価値尺度というものを提示する者たちがいなければ、人びとは、今度は何を中心に生きていったらいいのかという、その意味において迷ってしまうからなのです。
 そのために私は、明治の志士といわれている者たちが大社会改革を行ったあとに、動乱のあとに、新たな文明諸国を手本としていきながら、かつ新たな価値尺度づくりというものにおいて、学問というものを中心にして、努力をし、向上心を持ったのであるならば、そして学問を通して、深い認識力、判断力、克己心というものを身につけていく中で、多くの者たちが、新たな人生の、若者たちが自分の将来に対する夢と希望というものを打ち立てることができたのです。そのエネルギーが新たな明治新政府を通して、明治の時代、明治から大正にかけてのエネルギーというものをつくっていったのです。
 生まれ落ちたところの環境ではない、身分ではない、自分さえ努力したならば、石にかじりついてでも勉強していったならば、百姓のせがれでも、下級武士の子どもたちでも、商人であったとしても、明治政府の役人になっていくことができるのだと、新たな人生が開かれるのであるということは、ひじょうに多くの者たちに希望と功名心というものを与えたのです。光を与えていったのです。それを私はやったのです。
 「天は人の上に人をつくらず。天は人の下に人をつくらず」と申します。それは努力のもとには平等な・・・。たとえどんなりっぱなうちに生まれていても怠け者であってはいけないということ。新たな理想のもとに自分を切磋琢磨(せっさたくま)し、向上しようとして、学問にいそしむのならば、それは必ずやその人自身の財産として戻ってくるということ。そのことをもって新たな社会の価値基準にしたかった。私はそのつもりをもって、『学問のすゝめ』というものを書いたのです。それがやはり、その時代のニーズというものに合っていたから、大ベストセラーとなり、多くの者たちの新たなる、新時代を切り開く指針となっていったのだと思います。
 そして、その学歴が、学歴というのではない、学問の大切さというのをわたくしは言ったのです。そして新たなチャンスというものが平等に開かれる、努力に応じて開かれるということを私は言ったのです。
 それからまた時代が経ちました。時が経ち、その明治・大正・昭和というのが終わってきて、新たな時代がきた時に、今度はその行き過ぎてしまった学歴信仰、崇拝主義というのが、今の若者たちの首をしめる結果になっているのかもしれませんと、私は憂いているのです。
 けっして学問だけが、学歴だけが、同じ方向のベクトルの中において、みな同じ方向に向かって歩まねばならぬことなど、私はひと言も言ったことはなかった。だけれども、行く学校、行く学校の、その偏差値が、たまたまその偏差値ということが、逆に言うとあの時代の、その生まれ落ちた身分制度と、幕藩のどの藩、強力な藩主の家系の者のところに生まれたかというだけで、その人生の価値が決まってしまうような、逆に言うと、その、どの藩がというのが、たまたま入った学校がということで一生が彩られてしまうような、そのような体制を、また今は弊害として、生むような社会になってしまったのだと思います。
 そんなことは、私は言っていなかった。しかし、なんのものでも過渡期というものがあり、新たな価値観、理念というものが打ち立てられ、そして、その中でそれがしばらくたつと熟成し、それが腐敗した状況がきて、その初期の頃のよさというものが失われ、そしてまた逆に言うと、あの江戸末期から明治にかけて、説かれたからこそ意味のあった教えであっても、今この平成の時代、今度は新たな大改革期にきた、今この時代においては、私の教えたものは多少、もう古くなってきたのかもしれません。
 学歴万能、崇拝主義というのは、もう新たな個人の価値というものを認める尺度ではないということ。ただ、生まれ落ちた環境、親が金持ちであるとか、名門であるとか、そのようなものだけで決めてしまうよりは遥かに優れた手段、価値基準であると、私は今でも思っております。
 しかし、そのようなことよりも、人びとが己自体のすばらしい個性ある、個人の価値の希少性、己自身にしかないものを打ち出して、人生挑戦していくのだという、そして、それを受け入れていく、多様な価値観の社会の受容性というものも、社会はそろそろ成長していかなければいけないと思うのです。そういうものを受け入れていくように成長していかなければいけないと思うのです。
 一方向だけではなく・・・、私の時は最初蘭学でした。蘭学を学ぶことが、そのひとつの知識水準の、最初のインテリ層と言われている者たちの基準でした。それから英語になっていって、そして、新たなアメリカとか、そういう諸外国、ヨーロッパとかを知っていくということが、やはり大事なその時代の指導者層、リーダーシップを握る者たちのひとつの宝剣となっていったものですけれども、今度は新たなことにおいては・・・、龍馬たちだったらどうかと言うと、剣でしょう? あの時代は道場破りをするような優れた剣があった。そして英語ができる、オランダ語ができるということが逆にその時代にとって、指導者層の最低限の資質の基準であった。
 そして、多くの者たちが学問をするようになった。読み書きそろばんと呼ばれていたものを最低限みんな身につけて、最低限教養を持とうと、そのようなことを私は言ったはずなのです。そして、その延長上に、みんなが教育を受ける権利というものが提唱されていき、多くの今日本国民は高度な、高等教育というものを受けられるような環境というものをすでに、つくり上げてきたのです。
 これから起きることは、ここを原点として、多様な価値観づくりということがとても大事なことなんですけれども、今度わたくしが、霊天上界のほうにおきまして、さまざまな指導、そしてこの第三の計画における重要性というもの、意識レベルの向上というもの、ステップアップしていく、宇宙文明にいく意味での地球意識レベルでの向上ということを考えました時に、明治維新の時に勝るとも劣らない、いやそれ以上の価値観の大飛躍というもの、革命と呼ぶようなものが、これから行われるべきであろうと、私は思うのであります

メッセージの一部を動画で紹介しています

霊人紹介

福澤諭吉

(1835年-1901年)

 明治時代の代表的な啓蒙思想家・教育者。慶応義塾を創設者でもある。著書の『学問のすすめ』の冒頭にある「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」はあまりにも有名である。「独立自尊」の精神や「実学」の重要性を説いた。
天上界にある七次元と八次元の中間にある、梵天界の霊人。古代ローマの政治家・文筆家・哲学者であったキケロとして生まれている。三頭政治の開始以来共和政擁護を主張。アントニウスと対立し暗殺された。その文体はラテン語散文の模範とされる。
その後、12世紀の中国宋代の儒学者の朱子として転生している。それまでばらばらで矛盾を含んだ儒教の体系化を図り、朱子学を創始。孟子の唱えた「性善説」を完成させた。